第47話  酒田の車竿               平成27年04月15  
☆車竿の写真・・・・・あいおい美術館

☆車竿の穂先・・・・・あいおい美術館

☆二番ガイド  ☆リールシート
小型の横転リール  ☆酒田ウキ スズキ釣り用ウキ大型と小型の二種


 
最近車竿と車竿に使う横転リールを古道具屋や資料館などをいくら探しても中々見る事はなくなった。

 車竿とは庄内竿と同じ苦竹で作られた庄内竿と同種の竹で作られた竿である。明治から大正末期、昭和の初め頃にかけて最上川と新井田川の分離工事始まった。その後沖側に防波堤の延長工事が始まった。其の防波堤で大正の頃に現在の南突堤の先端付近で盛んに大型のスズキが釣れた。其のスズキを釣りたい釣り人が、竿の届かぬ沖側でより大きく数を釣る為に工夫された竿が車竿である。しかしながら此の竿は鶴岡の釣では邪道とされた竿でもある。主に黒鯛を釣る為に考え出された延竿を重要視する鶴岡の釣り人から見れば、釣竿に部品を付けて加工された異常な釣竿を庄内竿と見る事は出来なかったに違いない。それ故鶴岡の釣り人に聞いても、車竿の事を聞いてもその存在自体知る人は殆どいない。 そこに実利をとる合理的な酒田の釣り人と武士の釣の伝統を重んじる釣の違いを感じたものだ。
 上図の写真は残念ながら三間のスズキ竿ではない。二間の小物を釣る為の車竿である。スズキ釣りの車竿と異なりかなり細身の軟らかい竿である。主にキス釣りなどの小物釣り用に使われたものであろう。この車竿はクロダイなどを釣る延べ竿の庄内竿と違い余り貴重とされなかった為に、保存状態の良い状態で現在に残ったものの様である。頻繁に使用された大型の横転リールや車竿などでは、釣り人が亡くなるとその殆ど手入れされなくなり、車(リール)やガイドが錆びついーた状態で使い物にならなくなり、遺族のかた方々に中捨てられてしまったのが実情である。

 私が子供の頃に使われていた車竿は、主にスズキ釣りの竿が主流であった。スズキを釣る為の竿は主に三間竿で90〜100cmの大型のスズキを釣る為竿である。その為穂先が太く、手元もかなり太く全体的にずんぐりむっくりした丈夫な竿であった。手元の大型のリールシートには、北海道から取り寄せしたと云うイトウを釣る為の大型の横転リールを装填していた。道糸は8厘(8)〜1分(810)の茶色の秋田糸や人造テグスが使われた。人造テグスは十回ほど使うと糸ふけで使い物にならなくなる為、丈夫な主に秋田糸(絹糸を柿渋で煮てより丈夫にした物)が使われたと云う記憶がある。11月の初旬ともなれば、最上川の上流から落ちアユが流れて来る。それで河口に大型のスズキが集まる。仕掛けの基本は、酒田ウキの下に二〜三尋にオモリ一〜二匁()くらいを付ける。その下に一尋のハリス、セイゴ針5〜8号に餌のイトメ(きれいなピンク色をした虫エサ)か岩マエ(岩虫)の房掛けで釣った。
 大型のスズキの釣れる盛期には南突堤の最上川寄りに数十人の釣り人がならび各々赤い酒田ウキを付けて1m間隔で流れに乗せて下流に少しづつ歩いて行く通称流し釣りで釣る。そんな状態で釣れたスズキは、右へ左と暴れ回る。当然糸が絡みケンカが始まる。「バカヤロウ」、「この下手糞が・・・・!」罵声と怒号が名物の釣だった。

 戦時中に海軍の木造運搬船を作っていた酒田の山形造船の職工をしていた加藤釣具店(旧酒田警察署の真後ろにあった)の親父が、父の下で働いていた関係もあって作って貰った車竿を使い二、三度スズキ釣りに挑んで見たのだが、直ぐに怒号が飛び交うそんな釣が嫌いになった。そこで別に細身の車竿を作って貰い、キスやイシガレイ釣りをやったものだ。その後、平和主義者の私は南突堤の付け根付近で雨で濁りが入ると細身の二間一尺の延べ竿を使い黒鯛の二、三歳を5〜10枚とひきを楽しんで釣るようになった。昭和30年の頃の話である。